いま使われている歴史の教科書では聖徳太子の事績や実在に
疑問がつけられたり、鎌倉幕府の成立が1192年ではなくなっている。
「いいくに作ろう鎌倉幕府」は今や「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっているのだ。
そして、教科書の変化で目に付くのは、人物評価の「上がった人」「下がった人」の明暗である。
実在そのものにも疑問がついた聖徳太子が「下がった人」の典型だが、
聖徳太子から親書を託され、最初に隋に渡ったとされた遣隋使の小野妹子も、そのひとり。
「無礼な(607年)遣隋使・小野妹子」なんて語呂合わせを覚えている
読者は多いかもしれないが、山川出版社の教科書(以下、引用は同社のものより)では、
現在では〈600年の派遣に続けて607年には小野妹子が遣隋使として中国に渡った〉と
初の遣隋使ではなかったことが明記され、かつては太文字だったのも細字に
格下げされた。親書を託した聖徳太子も存在が疑われているから、将来の教科書では
名前そのものが消えているかもしれない。
一方、歴史研究の成果で、逆に評価が上がった人物もいる。
関ヶ原の戦いで西軍を組織した石田三成について、1988年版では
〈五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康の排斥をくわだてて挙兵し〉と
悪役臭が漂うような表記になっていたが、現在は〈豊臣政権を存続させようとする
石田光成と家康との対立が表面化し〉と、石田側にも大義があったように改められた。
劇的に評価が上がったのが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉である。1988年版にはこうある。
〈生類憐みの令をだして犬や鳥獣の保護を命じ、それをきびしく励行させたため、庶民の不満をつのらせた〉
〈綱吉はぜいたくな生活をするようになり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い、
幕府の財政を急速に悪化させた〉
みなが知る暴君の印象を強めるものだったが、現在では180度変わった。
〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉
悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。
http://www.news-postseven.com/archives/20130414_181590.html
>〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉
>悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。
こんなコジツケを教科書でやってるのか。
アホらしいなあ
犬を食う文化が途絶えたことのみ評価するで
吉宗って母親の実家の雑賀衆の忍者使って政敵暗殺しまくってるからな
父親とか兄二人とか尾張宗治とか
リアル暴れん坊だぜw
厩戸皇子はいたけど、「聖徳太子の名称を用いた誰か」などいない。
江戸の治安を良くしたのが綱吉
そして庶民のため幕府の金(現在の価値で2000億くらい)を使い道路、橋、寺の修復(一般に玉の輿と今でも尊敬されている)に使う。
それで庶民の経済は潤ったが幕府の財政は悪化したので陰口を叩かれる
鳩山みたいな奴だったんだろうな。
経済政策自体は正しい
浮世絵にしろ歌舞伎にしろ江戸名物のソバや寿司は綱吉の時代に大幅に発展する
後をついだ吉宗の元禄好景気後のデフレ下で緊縮財政やったから金回らずに農地が衰退し享保の大飢饉に反動でその後のバカ殿が吉宗がやったことの反対のことを田沼にやらせてなんとか息が付けたが
聖徳太子の時代には紙や漢字が流入し、本などで記録を残しているし捏造できる状況ではない。
現に、小野妹子の子孫は京都の池坊として存続しているし、蘇我馬子の墓は石舞台古墳として
残っていて、近くに豪邸の跡も発見されている。また、冠位十二階などちゃんと文字資料として
残している。
大阪の太子町に聖徳太子の墓や推古天皇、小野妹子の墓などがまとまって残っている。
ちょうど、仏教を国教にする時期で、600年に遣隋使を送ったところ未開国とバカにされ、リベンジとして
冠位十二階や憲法十七条を作って律令国家としての体制を整え、「日出づる国の天子」という文を
遣隋使として送った。
仏教、中国文化の受容という大きな時代の流れで、聖徳太子の業績は特別変わったところはなく、
現在の聖徳太子不実在論などはただの学者の「妄想」や「願望」であって、不在を証明できる科学的根拠や
物証はない。
日本の文化は全て半島を通じて日本に伝えられたものということにしたいから
日本で独自の憲法や階級を作った聖徳太子や中国と直接交流を持とうとした小野妹子は存在してはならない人間だからな
http://www.youtube.com/watch?v=J5zjZOwqzTE
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